(色)メガネは顔の一部です♪

世界を狭くしているのは自分自身

わたしは現在、半身麻痺で要介護の父と母との3人で暮らしています。


父はトイレットペーパーが無くなると、麻痺がありながらも ちゃんと新しいトイレットペーパーに交換します。
健常者の母は、トイレットペーパーをあと30センチのところでも残します。


そんな後にトイレに入って、トイレットペーパーを引っ張ったときには「オイ!」とツッコミを入れたくなります。


30センチでわたしのお裾が拭けると思っているのでしょうか。
わたしは30センチだったら、自分が使い切って 新しいトイレットペーパーに交換するのですが、皆さんはいかがですか?


こんにちは、okuです。

色メガネで見てるもの

人は色メガネを通して、外の世界を見ています。
その色メガネは、生きてきた過程で身につけたものだったり、前世から引き継いだ経験だったりすると言われています。


人にはそれぞれ「好き嫌い」という思いがあります。それは、持って生まれた性質によるものも。
好き嫌いは誰にでもあるものですから、それ自体は問題ではありません。
ただ、その思いに自分自身が巻き込まれてしまったら、それは「敵」になるのです。


平穏に生活していると、自分が裸眼で見えているのか 色メガネをかけているのかがわかりません。
しかし、何かあったときに「イラっ」とすることがあります。そんなときには、色メガネが装着されているときです。


しかも、自分が黒い色メガネをかけているのを忘れて、「暗いじゃないか!」と怒るのです。
人間関係で言えば、目の前の人を悪人に仕立てあげる感じ。


目の前に悪人が現れたときは、自分の価値観をちょっと疑ってみるときです。
感情を感情のままにせず 分析するクセをつけると、「自分はこれをしちゃダメだと思っているんだな」とか「自分はこうするのが当然だと思ってるんだな」という気付きがあります。


例えばトイレットペーパーひとつでも価値観は違います。
以前働いてた会社の女子会で、「トイレでお尻を立って拭くか 座って拭くかという話になりました。


しかもその場で決着が着かず、「会社の男性に電話してどちらで拭くのかを聞く」ことになりました。そして、「誰が電話するのかを決めるジャンケン」に敗れたわたしが男性社員に電話をしたのですが、今思い出してもなかなか悲しい罰ゲームでした。笑
結果を覚えていないのですが、「自分の当然は他人の当然ではない」ことに衝撃を覚えた出来事です。

どっちでもいい

結局、お尻は立って拭いても、座って拭いてもいいのです。
ちなみに父は、立って拭く派でしたが、麻痺が出てからは座って拭く派になりました。

途中から変えたっていいんですよね。


自分の狭い脳内で決めつけていることは、自分自身を狭い枠の中に閉じ込めているのかもしれませんね。わたしたちはいつでも自由なのです:)


お寿司は回っても回らなくてもいい