なぜ不幸だと感じているのでしょう。
図書館から本を借りることが多いわたし。
ヨガの本を借りると、
CDが付いていることも多いです。
本の返却は、
図書館の窓口の他に、外付けの返却ポストにも
入れることができるのですが、
CDは窓口での返却のみ。
借りたCDのケースを緩衝材の袋に戻し、
本と一緒に図書館の窓口に返却しに行きました。
こんにちは、okuです。
「CD確認しますねー」
って言った受付のおじさんの言葉で、
レコーダーからCDを取り出していないことを思い出しました。
「(CD)ないですよね」と言うわたしに、
「ないねー」と言うおじさん。
「また来ます…」と言って、
カラのCDケースを再び持ち帰りました。
サザエさんか、って…(遠い目)
悲しいことや腹立つことと、幸せは別。
わたしが就職した頃、
世の中ではまだ バブルの余韻が残っていました。
バブルが終わっていたとはいえ、
会社で飲みに行くと「山崎」をボトルで入れていて、
ミネラルウォーターで割られていたそれは とても美味しくて、
今でも山崎を飲めば、
亡くなった上司とともに飲んでいたあの頃を
懐かしく思い出すことができます。たぶん(←お酒を飲まない人)
「キレイな服が着たい」「ブランドのバッグが欲しい」と、外側に欲望を向け、
そこに幸せがあると思っていた 20代のわたし。
その恵まれた時間に後悔があるわけではありませんが、
結果として
「本来のしあわせ」
に気付くのが遅くなりました。
「幸せは自分の内側にあります」
そう聞くたびに、
「なにそれ」って思っていました。
「家族が元気で、最低限のお金があればいいんじゃない?」
それが、自分の幸せのハードルだと思っていたのです。
「幸せは自分の内側にある」
とちゃんと思えるようになったのは、
それから20年以上も経った、
旦那さんが亡くなったあとのことです。
家族が元気じゃなくても、
お金がなくても、
それは自分の幸せとは別の問題。
幸せは揺るぎなく
誰しもの内側に在ります。
「不幸って、自分の中に幸せの要素がひとつも無くなったとき」
なんじゃないのかな、と 今は思っています。
失って困るものがひとつでもあるなら 幸せだ、ってことだと。
「なるもの」ではなく、「もともと在るもの」に
目を向けられるかどうか。
体を動かせるとか、ご飯を食べられるとか、
そこに目を向けられるなら、
絶対に不幸にはなれないし、
「そんなの、皆 同じでしょ(ぷんぷん)」
と思うなら きっと、
自分の外側に目が向きすぎていて、
せっかく在る自分の幸せに
向き合えていないのかもしれない、と感じます。
あたりまえだと思っていたことに疑問を持つと、
実はそうではない、
ということに気付くことが多いです。
…気付くのが遅くてしょんぼりしますが、
でも わたしはやっぱり、
このタイミングだったんですよね。
ま、いっか。(開き直り)
内側の花弁がものすごいカーネーションに、テンション増し増し。
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北海道 札幌でヨガ講師をしています。
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