自分がいなくなった後の理想像。

どんな状態が理想ですか?

 

朝のまどろみの中、
いつも何かを考えながら目覚めます。


今朝も、


「車屋さんから車検の連絡来ないなぁ」って思いながら目覚めまして。


「いやいや、9月が車検なんだから、もう連絡来てもいいでしょ。ホンダめー」とか思ってたんですけど、


そういえば、スタンドに行っても「へいらっしゃい!ウチで車検しませんか!」
みたいな営業をされていないことに、ふと違和感を感じまして。


寝ぼけたまま おもむろに車の鍵を持ち、フロントガラスを見てみました。


こんにちは、okuです。


「32ってね、書いてあります。


母親に「今年って平成で何年だっけ?」って聞いたら、


「平成で31年、令和で元年」って鼻膨らましてドヤ顔で言われまして。


友だちにも「今年は車検で、もの入りだわ」くらいの勢いで話してたんですけど、来年でしたー。びっくりー(棒)


老化ってこんな感じで忍び寄ってくるから、くれぐれも気をつけて!(おまえがな)

 

 

 

遺された人ではなく、自分がどうしたいのか。

 

毎日、
「生きるためにすること」と
「死ぬためにすること」をしています。


「生きるためにすること」は、
「食事」や「睡眠」、そして「ヨガ」もそうです。


「死ぬためにすること」は、
「物を減らすこと」や「物を増やさないこと」です。


広義でいえば、
生きるためにしていることも、
死ぬためにしていることも、
同じなのかもしれません。




若い頃、時代はバブルの名残もあって、
足りないものを外へ外へと求め、


心の渇望感を「モノ」で埋めていた気がします。




時は流れ、


その頃から共に生きてきた旦那さんは亡くなりました。


未だに、旦那さんの持ち物をどうすることも出来ずにいます。


服や使って頂けそうなものは、他の方に受け取ってもらったのですが、


旦那さんが毎日手にしていたギターも、
大切にしていたゴルフ道具も、
その他もろもろのモノたちも、


わたしの手元にあります。





どうしよう?(遠い目)





これをどうするかは、単純にわたしの問題です。



遺された「モノ」と向き合っているようでいて、


自分自身と向き合うことになります。





自分なら どう在りたいでしょうか?



今の状態を積み重ね続けた 最期に「死ぬ日」が来ます。


うちの母は 娘のわたしに向かって、
「要らないものはゴミ袋に詰めて、ポイポイっと捨ててくれればいいよ!」と気軽に言います。


ですが、それを言う相手がいないわたしは、
最期の日のことを考えると、いつも焦りが出てきます。


お金を渡して「もしものときには、これでよしなに」と頼むもよし、
「死んだら野となれ山となれ」と思うのもアリ、
遺言を公正証書として遺しておくもよし。


結局のところ、


「自分がどうしたいか」


だけだと思っています。


いずれは迎える日のことを、少し想像してみませんか。


「良い」も「悪い」もありません。


「自分が」どうしたいのか。
「自分は」どう在りたいのか。


わたしも考えます〜(・᷄ㅂ・᷅) ←めんどくさそうにするのやめて


新しい週が始まりましたね。
今週も穏やかに過ごせますように:)



f:id:okuyoga:20190819160647j:imageぷすっ(フォークを指す音)しゅわしゅわ〜♡



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北海道 札幌でヨガ講師をしています。
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