受動的と能動的。

本当に受動的でしょうか。



「肩が痛い」とこちらに書いたことで、
ご心配をお掛けしたり、
優しいお声がけを頂いたりして、




「みんな神なのかな?」と思っている今日この頃ですが、




皆様いかがお過ごしでしょうか。




お陰様で少しずつ手の感覚が戻ってきているような気がします。




こんにちは、okuです。




ぱりんこの消費は変わらずです(聞いてない)。





掘り下げてみれば、能動的なのかも。



以前のわたしは、
誰かの期待に応えたくて、
なにかを我慢しながら生きていたような気がするのですが、




「相手の期待が何なのかわからない」
「相手の気持ちを忖度しても、高確率で当たらない」




と思うようになってから、




「相手の期待に応えられる自分」をやめました。




「あの人はわたしの期待に応えてくれない」と思われたら、大成功です。




いずれ「失望」というものに変わる「期待」なら、ない方がいいと思うのです。




他人からの承認を得るのではなく、
承認できる自分でいることの方が、




わたしにとっては、よほど大切なことです。




他人と比べれば、
全然足りていないわたしも、




一日が終わるときに振り返れば、




「頑張ったじゃない(わたしなりに)」と思えます。




大切なのは、
「わたし自身が、わたし自身のために、何をすることができたか」ということで、




「他人のために、やりたくもないのに、我慢してやった」ことは、




「自分のための時間を過ごした」とは、言えないのです。





でもどうしても、
人のために時間を割かなければならないときもあります。




「やむなく」と思いがちなその時間を、
「やらされている」ととらえるか、
「自主的にやっている」ととらえるかで、気持ちが全く違います。




人は、
指示されてやるよりも、
自分がやりたいことをやりたいもの。




ヨガも表情筋トレーニングも、




「これは絶対にやらなければならないものです」と他人に言われたら、




一気にやる気がなくなると思います。笑




「やりたくないと言いながらやる」ことは、




他人から見れば、
「やりたいからやっている」と同じです。




そしてその行動は、




「やりたくないことをやる、というタネを自分で蒔いている」ということです。




それはいずれが出て、
その結果現実となって現れます。




「わたしはこんなこと望んでいない」という現実のほとんどは、




「我慢してきたこと・やりたくもないのにやってきたこと」の結果です。




わたしも相当やってきました(遠い目)




我慢すること、
やりたくないと思っていることを、
少しずつ手放していったとき、




自分らしさという芽が出るはずです。




逆に、
「怖くてできない」と思っていることは、




怖がりながら、一歩踏み出すときです。




外側に答えはありません。自分と向き合ってみましょうか♡




週末ですね。
北海道は寒いです。




どうぞ穏やかに過ごせますようにヽ(*^ω^*)ノ




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コメダでご飯♡



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北海道 札幌でヨガ講師をしています。
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9月は満席になりましたm(_ _)m
10月頑張ります。宜しくお願い致します。
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