幸せのハードル。

クッッッソ高かったです。



母に初めてLINEのやり方を伝えたのは
2018年。
わたしがインドに行くときでした。




自宅にはWi-Fiの環境があるので
亡くなった旦那さんが使っていたiPhoneに
安いSIMを入れて母に渡しました。




それまで母は一度も
携帯電話というものを
持ったことがありませんでした。




父が要介護だったので
長時間出かけるということが
ほとんどありませんでしたし、




出かけるときは
わたしが一緒だったので
母だけが携帯電話を持つという
必要がなかったのです。




父が入院したのは
コロナ禍の真っ只中でした。




面会もできず
自ら電話をすることもできず
わたしたちの通信手段は絶たれました。




「手紙という手があった!」




そう気づいたのは
父が亡くなる少し前のことでした(遅い)




わたしと母が書いた
たった2通のその手紙を
父はとても大事そうにしていた、と
後に看護師さんから聞きました。




インドから帰って
まったくLINEをしなくなった母に




わたしのお下がりのiPhoneを持たせて
ほどなくして、母が入院。




LINEで連絡が取れることに
「持たせてよかった」と
しみじみ思いました。




こんにちは、okuです。




今では
階下から呼ぶよりもラクなのか、



(インスタント)ラーメン
半分食べない?

 



と、二階にいるわたしに
LINEが届きます。




ありがとう。LINE。




幸せな出来事のタネは自分の中にある



幸せはなるものではなく、
気付いていくもの

 

幸せは自分の内側にある

 


どちらも
同じような意味だと思うのですが、




幸せを感じられるハードルの高さって
どれくらいでしょう?




この
幸せを感じられるハードルの高さ、




旦那さんが元気なときは
わたしは
クッッッソ高かったです。




表現がアレで申し訳ないのですが
ほんとうに
今思えば笑っちゃうくらいに
「幸せを感じられるハードルの高さ」が
高かったと思います。




幸せは、外側にあると思ってましたし。




ウチの父は20年の介護生活で
母は還暦を迎えた頃から
ひたすら父の介護に勤しんでいて。




毎日同じルーティンで生活する
そのようすを見ながら
「つまらなさそう」と
思っていました。




今なら
「そう思ってるおまえ(わたし)の頭がつまらん」
と思うのですが、




「つまらなさそう」とか
「大変そう」とか
人のできごとを
近視眼的にしか見られないときって、




何かを持ち過ぎているとか
何かをやり過ぎているとき
なんじゃないかと思うのです。




それは
「やらなきゃならない」
「やるべき」と
自分だけが感じている日々のタスク
かもしれないし、




昔からの流れで
「ガマンするのがあたりまえ」
「わたしだけが我慢すれば丸くおさまる」
と考えるクセかもしれないし、




物理的に家の中にある
「(不要な)もの」
かもしれませんが、




外側にあるものばかりに
意識を取られているときは
ほんとうに
「何も見えないんだな」と
自分を振り返って思います。




わたしにとっては
「つまらなさそう」に見えていた
両親の日常は
それなりに楽しかったようです。笑




「幸せは自分の中にある」
ということばが
以前はまったく肚落ちしなくて。




「意味がわからん」
と思っていましたが、




今は
幸せ(な出来事のタネは)
自分の中に(すべて)ある
と感じます。




幸せってもっとどかーん!
大きなものだと思っていたから、




宝くじで1億円当たるとか
毎月海外旅行に行くとか
毎日フランス料理を食べるとか
そんなことだと思ってたのに、




実は
息を吸って吐けることとか
ご飯を食べられることとか
歩けることが
幸せに換算されるって
全然知らなかったんです。




「もっと若い頃にわかっていたら…」って
思うのですが、




若い頃のわたしには
これを骨の髄まで理解することが
できなかったでしょうから、




やっぱり、




今の自分をやっていくしか
ないんだなーと
諦めにも似た気持ちで
しみじみ思っています。




週末ですね。
どうぞ穏やかにお過ごしくださいヽ(*^ω^*)ノ




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#晴天


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北海道 札幌でヨガ講師をしています。
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